いろは物語

第三話(3/5)

平成7年(1995)1月17日~
 
阪神大震災当日からの事
 
悪夢のような震災は突然きました。
 
店も全壊、町も壊滅、しかし目の前の出来事は現実でした。
 
震災直後の脱力感の中、それでも余震は続きます。
 
落ち込んだり、悲しんだりする余裕などありませんでした。どこか安全なところに避難しなければ・・そう思い、とりあえず家族で近所の小学校に避難しました。
 
いざ、小学校に行ってみるとすでに満杯の状態。

廊下の端に少しのスペースしか空いてません。

色々場所を探すうち、妙に静かな教室があったので覗いてみました。
 
しかしそこは安置所になっており、亡くなった沢山の方がすでに寝かされていました。
 
その方々は、昨日まで元気に暮らしていたであろう私の町の人達です。
 
それが、今日には冷たくなって目の前に横たわっている。自分たちが生きてここに居るのが奇跡の様にも思えました。
 
そして、震災後の喧騒の中、暗く不安な夜が来ました。電気、ガス、水道も止まり、避難所の誰もが目の前の地獄絵図を受け入れられず、ただただ、暗く静かな、そして絶望感漂う、避難所でした。
 
そしてその中、震災の被害を伝えるラジオの中で伯父、伯母が亡くなったのを知りました。
 
しかし、今の自分には何もしてあげられない・・・・・
 
どんどん絶望と虚無に支配されていく自分をどうする事も出来ませんでした。

明かりが消えた町は、映画で観たようなゴーストタウンのよう。
 
暗闇の中で耳に入るのは、警察車両と救急車のサイレンの音 だけです。
 
暗い闇夜の中、東から西へ、西から東へ、赤色灯の光とけたたましい サイレンの音だけが、聞こえる世紀末のような夜でした。
 
浅い眠りの後、朝起きて強烈な現実に引き戻されます。
 
今度は震災を生き残った人たちの、生き延びるため必死の毎日が始まります。

極寒の寒空の下、人々は少しでも食料を求めてコンビニや商店で 長蛇の列を作ります。
 
少ない公衆電話には、不安そうな顔をした人たちが並びます。

私も食料確保に動き回りました。
 
阪急の西宮北口から電車が動いているとの情報を聞き、弟と2人で自転車に乗り駅へ向かいました。
 
どこまでも続く震災の傷跡を残す町並の中、やっとの思いで電車に乗りこみ大阪へ向かいました。
 
被災者の自分が着いた大阪は別世界でした。
 
大阪からすぐの神戸は、死体がどんどん運び出され、未だ多くの生き埋めの救助作業が続いている中、大阪ではごく日常の日々が続いていました。
 
何か自分が遠い世界からやって来た人間のようにも感じられすごく違和感を感じました。
 
ただやはりパン屋などの食料店では、長い列が出来ています。ゆっくりする間もなくパンを買い弁当を買い、大急ぎで家族の元に戻ります。
 
どうにかこうにか食料や物資を確保しながら避難所ですごしました。
 
震災から三日目の夜、嫁さんの姉が探しに来てくれました。
 
有り難いことに、ご主人の大阪の実家が部屋を貸してくれるとの事!
 
三日目にして精も根も尽き果てたかけてた私たち家族は、すぐ大阪に向かいました。
 
すぐに温かい風呂に入れてもらい、久しぶりの食卓での食事を頂きました。
 
この時、当たり前の事がこんなに嬉しい事だと言うのを改めて感じさせられました。
 
その後このお宅がある京橋で、約1ヶ月過ごさせていただくことになります。しばらくしてようやく落ち着きを取り戻した頃、店も仕事も失った私にはただ虚無な時間だけが残されました。
 
そんなある日、気晴らしに近くの商店街に散歩に出た時、ふと1軒の精肉店が目に入りました。
 
私の店いろは精肉店とちょうど同じくらいの規模で、店頭で自家製のコロッケなどを販売しています。やっぱり私は肉の職人、店の品揃え、肉のランク、作業場などを食い入るように見てしまいます。
 
その店の目利きをしながら、「やっぱり俺の店はええ店や」と思い、ふと気付きました。
 
「そうや・・・でも俺の店もう無いんや!」
 
改めて失ったものを強烈に自覚させられた瞬間。
 
その時の切なさや空しさは今でもハッキリ覚えています。
 
その時初めて、肉屋が恋しいと感じました。
 
そして自分の中で何かが変り、何かを取り戻し始めました。それからは、いてもたってもいられず、すぐにこれからの事を色々考え始めたのです。
 
丁度その頃、かつてのお得意様より「早くええ肉、納品をしてや」と連絡を頂きました。その言葉にようやく元の自分に帰れたような気がしたものです。
 
店も何もかも失った間借り人の自分がどうすれば仕事が始めれるか?
 
幸いにもそのお得意様が、今いるところから程近い大阪南港に拠点を移していたので、急遽大阪の仲間より商品の供給を受け、なんとか肉の納品までこぎつけました。
 
急ぎあわてて納品に行くと、そのお得意様は食事をご馳走してくださり、また色々食料も頂きました。
 
その時は、ただただ感謝するのみでした。
 
やはり普段から人の繋がりを大切にし、誠心誠意にお付き合いしないと
いけないと改めて感じていました。
 
それから本格的に店を復興させるべく、お世話になったお宅に感謝しつつ神戸に戻る決心をします。
 
神戸に戻り、ますは仕事の拠点をつくるべく自宅のガレージを改装して作業場を作りました。徐々に納品出来る体制を整え、少しづつですが一歩一歩進みながら店を再開していきました。
 
再開を聞きつけた従業員も1人2人と戻ってきて手伝ってくれます。
 
しかしながら、そうはいっても仮の作業場。市場は瓦礫の山のまま、店は跡形もないままです。
 
これをどうにかせんと進まんぞ、と思いながらも自分一人ではどうする事もできません。
 
そうこうしているうち、市が再興に向け本格的に始動します。当時の神戸市経済局の方が、商店街再開に向けて動き始めてくれました。
 
なにもかも失った我々も、バックアップする行政も真剣です。毎日毎日、連日熱い熱すぎる議論を行いました。

なんとかおぼろげながらも少し方向性が見え始めた頃、今度は都市開発のスペシャリストのコンサルタントの先生方が協力に駆けつけてくれました。
 
「都市問題経営研究所」「NMR」=(大林組)の頼もしい面々です。 再興に向けて、人々の熱いうねりがどんどん一つになっていきます。
 
まずは、商店街の人たちの考える、それぞれのこれからを洗い出し、そこから住宅部会と商業部会のメンバーに分かれました。
 
「商売をやめる人には住宅を」「商売を続ける者には店舗を」、という方針のもと、それぞれグループを作り自分たちのこれからを探ります。


いずれの未来図にしろ、まずは壊れた店舗をなんとかせなあかんということで、商店街を地域に分け店を解体し瓦礫を撤去して行くことになりました。
 
予定では、その解体が終了するには三ヶ月位かかるとの事。
 
そして次は、いよいよ新仮設店舗の建設です。
 
それまでは、今の仮作業場で仕事を続けながらの悪戦苦闘の日々が続きます。